トスカーナの州旗

トスカーナ
Toscana

州都 フィレンツェ  人口 3,516,000人

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Firenze フィレンツェ

フィレンツェ県 人口402,000人

フィレンツェのドゥオーモ   イタリアを知っている人、行ったことはなくても行ってみたい人、もしアンケートを取ればフィレンツェはきっとイタリアで一番人気の憧れの都市になるのではないでしょうか。ここには中世のころからの様々な魅力が現代にかけても色あせることなく残っています。芸術、建築、料理、ワイン、景色、数え上げればきりが無いほどです。フィレンツェは紀元前1世紀と早くに建設されたにもかかわらず、当時は古代ローマ帝国の一植民地でしかありませんでした。トスカーナ州において権威を築きだしたのは11世紀初頭で、中世の町の発展にともなってのことでした。 13世紀にはギルドが組織され毛織物業と絹織物業が発達し、その生産品をヨーロッパ全土に、さらにはヨーロッパ以外の国々にも輸出して、町の目覚しい発展に貢献しそれに伴い金融業も発達しました。特にこの百年の間で人口は8千人から10万人と増え、この成功がその後のルネサンス運動につながっていきます。ルネサンスを財政面などで支えるメディチ家もこのころから現れ、後300年に渡りフィレンツェの支配に関わり続けました。フィレンツェの黄金時代の始まりです。ルネサンス時代のフィレンツェではメディチ家の保護の下、たくさんの芸術家を生み出しました。レオナルド ダ ヴィンチ、ミケランジェロ、ボッティチェッリ、マキャヴェリ、ダンテなどはイタリアだけではなく、世界に名前をとどろかせた時代を代表する人物でもありました。今でも彼らの作品はウフィッツィ美術館など多くの場所で見ることができます。メディチ家の権力は強くヨーロッパ中で影響力を持ち、ナイフやフォーク、そして今のフランス料理の元となった「調理の真髄」をフランス王朝に伝えたのもメディチ家でした。ルネサンス後もフィレンツェはトスカーナ公国を設立し周囲に君臨し続けましたが、イタリア統一運動が起こり併合されました。その運動の中でフィレンツェは1865年からの短い期間ですが、統一イタリアの首都となり政治の中心を担いました。今では大都市ではなくなりましたが、世界中からポンテヴェッキオや花の大聖堂をみようと訪れる観光客で溢れています。フィレンツェは革製品などのファッション業も盛んで、世界的にも有名なフェラガモなどの本店があります。イノシシや野鳥を含め食材が豊富で、料理やワインが楽しめフィレンツェ名物「ビステッカ アッラ フィオレンティーナ」はシンプルながら素晴らしい肉と味付けでこの町の最も代表的な料理になっています。丘へ上がれば広大なブドウ畑とオリーヴ畑を望むことができ、そこで造られるキアンティやオリーヴオイルも世界に輸出され、今でも様々な形でフィレンツェは人々を魅了しています。

Siena シエナ

シエナ県 人口194,000人

シエナの街並み   シエナはトスカーナ平原の中心に位置し、1240年創立の伝統あるシエナ大学やキジアーナ音楽院などを持つ、学問と芸術の町として知られています。その歴史は古くエトルリアに起源を持ちますが、文書に記述されたのは古代ローマのアウグストゥスの時代になってからでセーナ・ユーリア(Sena Julia)と呼ばれていました。シエナが発展するのは6世紀になってからで、フランスとの交易が盛んだったロンバルディア地方を経由しイタリア中部を結ぶ交通路、フランチジェーナ街道が作られた事がきっかけとなりました。12世紀になりシエナは自治都市として独立し、商業や金融業を中心に繁栄します。それに伴い隣国のフィレンツェと激しい敵対関係になり、この対立は政治面だけでなく芸術の分野にまで及びました。フィレンツェが表現豊かなルネッサンス期を築くのに対し、シエナではシエナ派というより中世的で神秘的な表現を求めるギリシャやビザンチン風の独自の芸術スタイルを築いていきました。繊細な色彩と微妙な線で描かれるその絵画は気品と厳かさを持ち、そのスタイルは彫刻や建築にも見られます。13世紀にはカンポ広場や市庁舎など町のシンボルとなる見事な建造物が建築され、対外的にはフィレンツェに戦いで勝利するなどシエナの全盛期を迎えます。しかしその後ペストの大流行で町の半分以上の人口が失われ、シエナの衰退が始まります。そのため後にフィレンツェに併合されてしまいますが、シエナは中世的な独自の面影を残し続けました。今でもイタリアを代表する観光都市になり、世界的に有名な祭りパリオが行われることでも知られています。

SanGimignanoサンジミニャーノ

シエナ県 人口57,000人

サンジミニャーノの塔   サン ジミニャーノはぶどうとオリーヴの木が育つ起伏の多いトスカーナの平原の丘の頂にある町で、数多くの中世の塔を持ち、「美しき塔のサン ジミニャーノ」と呼ばれるようになりました。人口の少ない小さな町ですが、ワイン、食材、観光など様々な分野で知られており1990年にサン ジミニャーノ歴史地区としてユネスコの世界遺産に登録されました。ここは紀元前3世紀頃にエトルリア人が小さな集落を築いた場所で、サン ジミニャーノと名乗るようになったのは紀元10世紀。6世紀にトティラ軍の攻撃から町を救ったモデナの司教の名からとられました。ここからサン ジミニャーノの歴史が始まります。町が発展したのは中世の時代からで、北ヨーロッパからフィレンツェとローマを結ぶ巡礼の道の途中にあったため経済的にも発展し、重要な町として栄えたのです。教会や宮殿に多くの芸術作品が創作された時期です。ですがその後、他のトスカーナの都市の例に漏れず近隣都市との戦争と教会分裂によるグエルフィとギベッリ−ニ派に分かれた町内部の抗争に苦しみます。さらにペストの流行が町の商経済に大打撃を与え、その結果フィレンツェの支配下に入ることを余儀なくされます。現在も残っている数々の塔は都市内での権力争いの名残りであり、最も力と富を持つ者が最も高い塔を建てました。自治都市として最も繁栄していた時代には、塔を壊すときには新しい塔を建てなけれればならない法律が整備されていたこともあったくらいです。現在は塔を建てる習慣は残っておらず、全盛期に72本あった塔も今では14本残っているのみです。

Lucca ルッカ

ルッカ県 人口87,000人

壁に囲まれたルッカ   ルッカには現在も100以上の中世からの教会が残っており、教会の町と呼ばれています。ここには毎年多数の観光客が訪れますが、街は大きくないため散策を楽しんでいます。トスカーナの平野の真ん中に位置し、全長4キロメートルの城壁に囲まれた小さな静かな町です。この城壁はルッカのシンボルとも言え、現在の物はローマ時代、中世、15世紀のものに続いて造られた4つ目のものになり、16世紀中頃から17 世紀の中頃にかけてそれまでの要塞基盤を拡大しながら造られました。これはルッカが紀元前2世紀にローマの植民地となり、軍事基地として活躍したことから始まります。12世紀以後小さな自由都市となったルッカは絶え間なく外敵から脅かされたため、常に城壁を強化していったのです。近隣の大都市国家の繁栄をよそに、独自の経済と文化を持ちました。650 年に建設されたといわれているヨーロッパで最も古いとされている造幣局もこの町に残されています。絹織物の製造と取引に基礎を置いたこの町の経済的な重要性は14世紀半ばまで増大し、この頃に現在も数多くの残る美しい宗教的な建築物が建てられました。また街には不規則な形の小路や広場が複雑な網の目のように設けられました。その頃は他のトスカーナの都市と同じように100以上の塔を持っていましたが、時間の経過と共に多くの塔は壊され、現在でも内部に入場できる塔は二つだけとなっています。少し郊外へ行くと数多くの別荘やアグリトゥーリズモの施設があり、オリーヴ畑やブドウ畑を訪れることも出来ます。またルッカは世界中で有名なトスカーナ葉巻の産地でもあります。

Arezzo アレッツォ

アレッツォ県 人口92,000人

アレッツォ “ライフ イズ ビューティフルより”   アレッツォはイタリアでも最も古くから栄えていた町であり、交通に便利な立地から重要な拠点として見なされていました。町の起源は紀元前6世紀までさかのぼり、古代エトルリア文明の12の都市の一つでした。その後ローマ都市となりARRETIUMと呼ばれ、独特の陶器を製造し輸出することでも知られていました。11世紀の末からは自由都市国家となりますが1384年に長い闘争の後、他の近隣の都市と同様フィレンツェに併合されることになります。アレッツォには今でもその当時の文明の文化的遺産があり、博物館に展示されています。こうしてアレッツォは歴史の数々の遺跡を留めるとともに、音楽、絵画、詩人の分野で数多くの著名な芸術家を生み出しました。フィレンツェのウフィツィ美術館を建設したヴァザーリ、そしてピエーロ デッラ フランチェスカもこの町の出身であり、彼のフレスコ画の代表作である「聖十字架伝説」がサン フランチェスコ教会に今でも残っています。また現代コメディアンであるロベルト ベニーニの出身地であり、世界中で話題となった彼の主演監督映画「ラ ヴィータ エ ベッラ」(邦題:ライフ イズ ビューティフル)はこのアレッツォを舞台に撮影されました。6月と9月には、有名な町の伝統行事であるサセランの祭りが行われ、サラセン人を模した人形を相手に戦う「馬上槍突き競技」が催されます。この街は貴金属細工の産地として知られ、また骨董屋が多く毎月行われるアンティーク市はイタリアで最も規模が大きく数多くの観光客が訪れます。